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地球環境原理主義

自然環境や地球環境を気づかいながらも人間としてよりよく生き抜く!

超荒野に沈む真っ赤な朝日:詩語篇

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その時かと問われればそうかもしれないし、自らの言葉に責任を持つのだとすれば果たしてどういうことだったのかは皆目見当もつかないことが起き得る欧州の中心都市巴里。

 

無秩序あるいは渾沌。混濁する意識。隆盛を誇る非現実的近代都市空間。

 

ロッキングチェアに横たわり(正確には腰を中心に斜め50°程度の傾き)遠くから訪れるはずの友人を待ちつづける。

 

かれこれ60年ほど待ち続けたがあと40年ほど現れないかもしれない友人。

 

マリアの硬い茎。

 

息づまる肉体。

 

全身の皮を剥がれ血塗れの肉と骨を晒してまで戦った超人は(おそらくそれはウルトラマン)肋骨の間から敵に心臓を鷲掴みにされ、息絶え絶えになりながら、胸に輝く赤い心音も絶え絶えのまま、それでもなお同じく皮を剥がされ血塗れの肉と骨を晒した敵と戦いつづける。

 

しかしてその敵とは愛する女性であるらしい。...瞳がそう語り出す。

 

 

パリ北駅までの:詩語篇

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友人の死を背負ったままの旅は

 

想像を絶する悲しみと

 

抑えきれない慟哭を

 

改めて実感する旅となった。

 

 

ドイツ・ケルン中央駅を

 

午後2時に出発したTGV

 

徐々に黄昏ていく田園地帯を走り

 

やがてベルギーの首都・ブリュッセルに着いた。

ポスト・デモクラシー

今、なぜ生き辛いのだろう?と考えてみた。

 

性別や年齢のせいではなく、ましてや国家や人種のせいでもないと仮定した場合のことである。

 

日本では戦後70年を過ぎ、国の違いはあれど世界各国が近代国家になったのも200年はとっくに超えている。(アメリカ独立戦争は1775年)

 

崩れ出し腐りだしている「現代」をもうそろそろ疑うべき時ではないだろうか?…ただし疑うのは「国家」や「政治」ではなく「市民としての生き方」だ。

 

1961年生まれの私は「民主主義」という時代に生まれ生きてきた。疑うことなくそこには「民主主義」しか選択肢はなかったし、他に知っていたのは「社会主義」くらいである。

 

そもそも「主義(イズム)」というものも疑う必要がある。←まぁこれ自体も主義の一つなのかもしれないが…

 

とにかくである、そろそろ「現代」から脱却するポスト・モダンとしての「ポスト・デモクラシー」は何なのかを探し見つけ育てていかなくてはいけないと思っている。

 

それはただの「レッテル貼り」なのかもしれないし、「暮らしの価値を見直す」とか「生活態度を変える」とか「生活環境を変えてみる」程度のことなのかもしれないが、しかし「主義(イズム)」に相対するものも含めて、もう少し探求や追究をしてみようと思う。

 

生きていく「テーマ」とはそんな観点から見えてくる気がしている。

書始

以前にVectorが運営するmaglogというところで同タイトルの「地球環境原理主義」というBlogを書いていました。その後にgooで「新・地球環境原理主義」、Yahooで「続・地球環境原理主義」をまとめBlogとして始めましたが肝心の本家が無くなってしまったのでこちらで再開することにしました。

 

…今ふと思い出しちゃいましたが、そういえば6年くらい飛び飛びで書いていた私小説も消えてしまいました…トホホ

 

まずは書き始めのご挨拶を。

 

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