地球環境原理主義

自然環境や地球環境を気づかいながらも人間としてよりよく生き抜く!

田手沼の坂道、バルパライソの夕日:詩語篇

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道幅1.5mほどの市道を下った所にその家はあった。

 

昭和44年に竣工した一軒家は当時の流行でもあった圧縮パルプによって建てられた家である。

市道から渡された回廊は、およそ3mほど延び、アリゾナ杉で建造された廊下はギシギシと音を立てるがいたって元気だ。

 

両脇が絶壁となっており、常人の歩行では心持たない。

 

崖から見下ろすのは太平洋。まるでバルパライソの夕日のような照り返しに赤く染められ、しかしとても風情の在る廊下だ。

 

見下ろすその家には...そう、1頭の「龍」が棲んでいた。

 

臥龍」と称したその「龍」はいまは未だ深い眠りの中。

 

彼が目覚めるのはあと4000年後のことである。

 

 

されど我が心は満たされることもなく:詩語篇

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喘げども、君への声は届かない。

医療センターの屋根すれすれに輝く三日月がはるか上空へと
昇っていく。

なんと美しく、そしてなんと不思議な出来事であろうか。

そしてブルースはもう歌えない。例えフレディ・キングが
軽快なリフを奏でようとも、私には為す術がない。

ましてや、かつての米軍基地後には、何やら得体のしれない
大穴がゆっくりと開きだしたのはつい先日のこと。

それさえ今の私には全くといってよいほど無関心きわまりない。

一体どうしたら、人生は輝きに満ち溢れるの?

突然の渋滞に困ったかと思えば、取り締まりの警官にも
悪態をついているような善人をはたして誰が諌めることが
できるの?


人生は歩き回る影法師。

人生は動き回る果心居士。

人生は祈り続ける祈祷師。

人生は拝み続ける創価学会

人生はアジり続けるビン・ラディン

人生はとぼけまくるジョージ・ブッシュ


Hey ジョージ!

歌ってよ!夕日の歌を。

歌ってよ!あの日の歌を。

歌ってよ!魂の叫びを。

歌ってよ...

血のように真っ赤な夕日に染まった油井の為に
一家の威信を懸けたあのカラオケを。

♪私は街の子、巷の子。
そして私は...越後獅子

 

 

トキワの空:詩語篇

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憂春のトキワの空には一団の雪雲が通り過ぎていった。

それは国分運動場から母校へ続く道すがら。

 

降り続く粉雪はやがて吹雪のように我が身を打つ。

一時ほどで雪は上がったがどうやら右足が痛い。

蛇行するこの道のせいだろうか、あるいはこれまで歩いてきた人生のせいであろうか。

夕暮れ迫るトキワの空には、大怪獣の陰影が似あう。

闇に迫る大怪獣は雄叫びを上げて迫り来る。

それは20年前の帯広から士幌へ続く道での光景に似ている。

あの時も夕暮れの中に大怪獣の雄叫びを聴いたような気がする。

しかしそれも束の間。

 

一時の感傷は全ての行いを無に帰する。

喉元をすぐれば元の木阿弥ということ。

 

 

サガワを待ちながら。:詩語篇

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本当は2005.12.23。

ノガーワ河岸には葦の穂が揺れ、水鳥が戯れる長閑な風景が広がる。

 

対角17インチの産業廃棄物回収を待ちながらやや寒々とした大気の中、ふとサガワ(別名:エス)の事を思い出す。

 

彼との出会いは約45年前、北関東逆境の街・Hであった。

首から5cm角のチェーンを垂らし耳をキチンと立てやや大きめの黒目をしたサガワは身の丈6尺の偉丈夫である。

 

彼とともに育った街・Hは北関東の太平洋沿いに存在する工業都市

背後に阿武隈山地から連なる尾根を戴く細長い街である。サガワは尾根の中腹の集落で生まれた。


子供の頃の彼を知るものは誰もいない。

居るのか居ないのか、両親でさえその存在は希少なものであった。

 

例えば夕暮れの室内。

昼間から見かけないサガワを心配した母親が呼ぶ声に暗闇から返事をするサガワ。

 

一日中読書にふけっていたサガワは、薄暗い部屋の片隅に佇んでいた。

そんな5歳の頃。

 

 

超荒野に沈む真っ赤な朝日:詩語篇

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その時かと問われればそうかもしれないし、自らの言葉に責任を持つのだとすれば果たしてどういうことだったのかは皆目見当もつかないことが起き得る欧州の中心都市巴里。

 

無秩序あるいは渾沌。混濁する意識。隆盛を誇る非現実的近代都市空間。

 

ロッキングチェアに横たわり(正確には腰を中心に斜め50°程度の傾き)遠くから訪れるはずの友人を待ちつづける。

 

かれこれ60年ほど待ち続けたがあと40年ほど現れないかもしれない友人。

 

マリアの硬い茎。

 

息づまる肉体。

 

全身の皮を剥がれ血塗れの肉と骨を晒してまで戦った超人は(おそらくそれはウルトラマン)肋骨の間から敵に心臓を鷲掴みにされ、息絶え絶えになりながら、胸に輝く赤い心音も絶え絶えのまま、それでもなお同じく皮を剥がされ血塗れの肉と骨を晒した敵と戦いつづける。

 

しかしてその敵とは愛する女性であるらしい。...瞳がそう語り出す。

 

 

パリ北駅までの:詩語篇

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友人の死を背負ったままの旅は

 

想像を絶する悲しみと

 

抑えきれない慟哭を

 

改めて実感する旅となった。

 

 

ドイツ・ケルン中央駅を

 

午後2時に出発したTGV

 

徐々に黄昏ていく田園地帯を走り

 

やがてベルギーの首都・ブリュッセルに着いた。

ポスト・デモクラシー

今、なぜ生き辛いのだろう?と考えてみた。

 

性別や年齢のせいではなく、ましてや国家や人種のせいでもないと仮定した場合のことである。

 

日本では戦後70年を過ぎ、国の違いはあれど世界各国が近代国家になったのも200年はとっくに超えている。(アメリカ独立戦争は1775年)

 

崩れ出し腐りだしている「現代」をもうそろそろ疑うべき時ではないだろうか?…ただし疑うのは「国家」や「政治」ではなく「市民としての生き方」だ。

 

1961年生まれの私は「民主主義」という時代に生まれ生きてきた。疑うことなくそこには「民主主義」しか選択肢はなかったし、他に知っていたのは「社会主義」くらいである。

 

そもそも「主義(イズム)」というものも疑う必要がある。←まぁこれ自体も主義の一つなのかもしれないが…

 

とにかくである、そろそろ「現代」から脱却するポスト・モダンとしての「ポスト・デモクラシー」は何なのかを探し見つけ育てていかなくてはいけないと思っている。

 

それはただの「レッテル貼り」なのかもしれないし、「暮らしの価値を見直す」とか「生活態度を変える」とか「生活環境を変えてみる」程度のことなのかもしれないが、しかし「主義(イズム)」に相対するものも含めて、もう少し探求や追究をしてみようと思う。

 

生きていく「テーマ」とはそんな観点から見えてくる気がしている。